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天皇が沖縄を訪れ「平和」を祈る日は来るのか?復帰50周年式オンライン「おことば」に思う


天皇は沖縄復帰50周年式典にオンラインの形で参加し「おことば」を述べた。その中でおやっと思った一節があった。


以下引用すると、


「一方で、沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。」


「様々な課題」とあるから問題は複数だが、ひとつは普天間基地返還とセットになった辺野古埋め立て問題、さらに大きくいえば、沖縄の重い「米軍基地負担」にあると推測される。はっきり言うと、「政治的発言」になるから、様々な課題としたのだろう。


過去を振り返ると、昭和天皇は1972年の復帰式典には東京・武道館の会場で「おことば」を述べている。さらにいえば、昭和天皇は復帰後、一度も沖縄を訪れていない。


なぜか。ひとつは、沖縄戦の過酷な経験から、(日中戦争から第二次大戦まで)大元帥として戦争を遂行した昭和天皇に対する複雑な感情があったからである。


終戦の年1945年の3月に始まった沖縄戦では、住民が苛烈な地上戦に巻き込まれ多くの犠牲者(住民の死者94000人)を出した。軍隊と一緒に洞窟に逃げ込んだ住民が指揮官の命令で集団自決した事例もある。


本土に復帰したが、米軍基地は残っており、日米安保条約のもとで米軍が従来通りに使用できる。(核抜き本土並みが条件だったので、核ミサイルは撤去した)


本土復帰と同時に、「自衛隊」の沖縄進駐もきまっており、「軍」への忌避感が強い県民感情として、「天皇」を歓迎するという状況ではなかったのだ。


天皇は沖縄に行くことを望んでいたが、復帰後の沖縄では、反米、反安保、反自衛隊を主張する新左翼系の活動が活発化し、天皇の沖縄訪問時に不測の事態が起きるのをおそれたとも言われている。


いまの上皇は、皇太子時代の1975年、夫妻で沖縄国際海洋博覧会出席のため初めて沖縄を訪れた。このとき、戦闘に巻き込まれて亡くなった女学校生徒を慰霊する「ひめゆりの塔」で、新左翼活動家に火炎瓶を投げつけられる事件があった。


夫妻は無事で、同行した「ひめゆりの会」会長にことばをかけ、その後も予定通り慰霊を続けた。(上皇は、皇太子時代に4回、天皇在位中は6回沖縄を訪れている。)


現天皇に話をもどすと、皇太子になる前、浩宮時代をふくて、5回、沖縄を訪問している。最近では2010年7月に全国高校総合体育大会に出席している。


朝日新聞などの世論調査によると、沖縄配備の米軍について、中国の台湾武力統一のおそれなどを念頭にして沖縄でも「安全保障のため必要」をいう声が強まっている。


基地の弊害と中国への警戒感、沖縄の思いは揺れている 沖縄県民調査(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース


元首相が「台湾有事は日米有事」などと言っている間は、現天皇が沖縄を訪問して「平和を祈る」という空気にはならないのではないか。


天皇陛下のお言葉(全文) 沖縄復帰50年:時事ドットコム
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蛇足ながら


昭和天皇が1947年9月19日に米国務省高官あてに「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」ことなどを伝えた文書がある。
“天皇メッセージ” – 沖縄県公文書館 


内容は
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。


の3項目。


新憲法は昭和21年(1946)11月3日に公布、翌年1947年5月3日に実施されており、このメッセージは昭和天皇が「象徴天皇」でありながら、政治・外交の核心部分に関与していたことがわかる。


日本が主権を回復したのは1952年(昭和27年)4月28日、米国をはじめとする連合48カ国との間でサンフランシスコ平和条約が発効した日である。同条約は沖縄(と奄美)を除外していたため、沖縄ではこの日を機に本土復帰運動が始まった。


天皇メッセージの評価は、その影響力を含めてわかれているようだ。(天皇は沖縄を戦後の早い段階で見捨てたとする指摘もある)筆者は1で軍事占領の継続を認めながら、なお主権は日本に残すという点に矛盾、無理があるように思われる。

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