時代遅れの新聞読みブログ

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北朝鮮にコメ支援した時代もあった 菅氏の弔辞に思う 背景に日本のコメ余り

(1995年6月、最初に北朝鮮にコメ支援をきめた時の河野洋平外務大臣談話=このときは、コメ不作=1993年=対策で、緊急輸入したコメが余っていることの活用になると言っている。)


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安倍晋三元首相の国葬で、菅氏が捧げた弔辞がなにかと話題を集めている。筆者にとって興味深かったことのひとつは、菅氏が安倍氏と親しくなるきっかけは「北朝鮮への支援米」だったと弔辞で明かしたことだ。


日本と北朝鮮との交渉、対話は絶えて久しい、予告なしに弾道ミサイルが列島を飛び越えて、太平洋に落ちる今日この頃である。若い人は北朝鮮にコメ支援をしていた時代もあったのかと驚く向きもあるのではないだろうか。


1990年代の北朝鮮は、大洪水被害など気象災害に見舞われ、政策的失敗もあり農地は荒廃、慢性的なコメ不足に悩まされていた。最悪期には5万人の餓死者が出たともいわれている。


国交のない日本も、国連や世界食糧機構(WFP)の要請をうけて、1995年から「人道的立場」からコメ支援を行ってきた。(医療支援もあった)


北朝鮮へのコメ支援の隠されたねらいは、国交正常化交渉の進展と、拉致問題解決にあるが、支援米は、軍や支配階級に回るだけでムダ玉ではないかとの声はあった。


かつての菅氏もコメ支援「反対」の立場で、弔辞で、「平成十二年(2000年)、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。私は、当選まだ二回の議員でしたが、『草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない』と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。」と述べた。(記事が安倍氏の目にとまったことで、安倍氏と親しくなったという。)


2000年には北朝鮮に対して50万トンのコメ支援が行われた。その後、2001年に小泉純一郎首相(当時)は電撃的な北朝鮮・平壌訪問を行い、拉致被害者(一部)帰国につながる。安倍氏は内閣官房副長官で平壌に随行した。菅氏の話は、コメ支援が首脳会談、拉致被害者帰国へのひとつの糸口となったことを思わせる。


当時の日本のコメ事情についてもふれておきたい。1994年のWTO(世界貿易機関、当時はGATT)交渉の結果、日本は2000年まで一定の割合でコメの輸入義務(ミニマムアクセス米)を受け入れることになった。


年間80万トン程度の輸入枠だったが、その分、国内で余剰米が発生することになり、コメ価格は下落気味だった。自民党のコメ議員(いわゆる農水族)は余剰米対策として北朝鮮へのコメ支援に積極的だったといわれている。コメの需給が引き締まり、価格上昇が期待できるからだ。


安倍氏はその後の首相時代、北朝鮮については核実験や弾道ミサイル発射などもあって、制裁を強める一方だったとの印象がある。日本のコメは少子高齢化で、消費量が年に10万トンずつ減って、余り気味なのだが、北朝鮮へのコメ支援という話は、もはや出ることはないと思われる。

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