時代遅れの新聞読みブログ

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「諫早湾干拓」裁判 背景にコメ増産で始まった巨大事業を引きずったノー政 判決は防災機能を重視

(上の図は諫早市ホームページより転載しました。ホームページには諫早湾の干拓は江戸時代から行われており、冠水や塩害は昔から大問題だったと書かれている。)
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国営諫早湾事業干拓事業の「潮受け堤防排水門」をめぐり開門か閉門(開門差し止め)が争われていた裁判で、福岡高裁は25日、「閉門によって漁獲量が減った」という漁業者側の主張を退け、実質的に国側主張の「締め切り継続(閉門)」を認める判決を出した。


有明海は4県にまたがっており、堤防排水門をめぐる裁判も多数出されたが、開門と閉門(開門不可)のそれぞれを認める判決(命令)が出され、いずれも国が上告せず確定判決となった。


政権交代もからんだ複雑な経緯は新聞(あるいはウィペディア)を読んでいただくとして、コメ偏重の農政の失敗という視点から拙稿をお届けする。(読者は少ないですが 笑)


諫早湾干拓事業は1952年に長崎県知事がコメの増産を目的とする「長崎大干拓構想」として発案したのがきっかけ。


第二次大戦後の人口増にコメ生産が追いつかず、タイから輸入していたころ。時の首相が「貧乏人は麦を食べればいい」と言って問題になったことがある。(貧乏人とは言っていないとの説もある)


当時、農政の主眼はコメ増産にあった。農家は増産に励み、品種改良、コメ作り技術も進みコメ不足から1960年代後半にはコメ余り時代になった。


旧食糧管理法では、コメは政府が生産者米価で買い取っていた。卸売価格は政策上低く抑えていた(政府米消費者価格も公定だった)ため逆ざやになり、コメ会計(食糧管理特別会計)の赤字は大きな問題になっていた。


そこで1970年から始まったのがコメの作付面積をへらす減反政策である。コメをやめて大豆や小麦に切り替えた農家には、転作奨励金(補助金)が出されることになった。


農家からは大反発を受けたがコメ余りは明かだったので、渋々だが米価維持のために受け入れたといったところだ。


国の直轄事業として諫早湾開拓が着工したのは1989年。減反は続いており、大きな対日貿易赤字を出していた米国からはコメ市場開放を迫られていた。


諫早干拓事業計画でも米作ではなく、畑作となった。目的には防災強化も加わった。


諫早を流れる本明川は数年に1度の頻度で氾濫し、1957年には500人以上が犠牲になる諫早大水害が起こっている。目的に防災があるのは当然のことだろう。


今回の福岡高裁判決でも、堤防が水害対策など防災面で「中核的設備」であるとして「公共性は増大している」と述べている


干拓事業による農地は670ヘクタールだが、長崎県の減反面積はそれ以上、2千~3千ヘクタールはあるはずだ。(2019年の稲作面積は1万ヘクタール、減反割合2~3割と仮定)


諫早湾は図にあるように江戸時代から干拓がすすめられてきた。既存の水田で減反が進むなか、干拓地で米作はムリだということは早い段階でわかっていたはずだ。


畑作をするにしても採算性の問題がある。現在、干拓地には現在35の個人と農業法人があり、キャベツやレタス、麦、大豆などを生産している。


麦や大豆には補助金が出ていることも付言しておく。補助金なしで自立経営は難しい。


農地は国からリースされているが、総額2500億円という事業費はいくらかがリース代にはね返るため、営農初期にはリース料の滞納者や撤退する人(法人)があったという。


朝日新聞の26日付朝刊記事によると、干拓地の農産物生産額は年間約30億円。営農者の方には申し訳ないが、事業費に見合ってるかどうかは疑問なしとしない。


筆者は1989年の着工前に、国は農地造成のための干拓を止めて、洪水・冠水対策と既存農地の塩害防止のための、より小規模な=環境への影響も抑える堤防・水門に転換をするべきだったと考える。


営農が始まったのは2008年。もう後戻りはできず、同じ地域に住む営農者と漁業者、有明海に面する四県の中でも対立するというまったく残念なことになってしまった。


農地にこだわって、巨大公共事業をすすめた政治家と農水省官僚の責任は大きい。


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判決では裁判長が「(有明海は)国民的資産であり、人類全体の資産である」として、当事者(国、営農者、漁業者)に和解を促している。


一方漁業者側・弁護団長は国側の主張がほぼ取り入れられたことを不服として、最高裁に上告すると明言している。決着はまだ先になりそうだ


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1997年の水門締め切り後に「漁獲が減った」、「養殖ノリが赤潮発生で不作になった」との被害の声があがり、漁業関係者から開門を求める反対運動が起きた。


当時は自民党政権だったが、武部勤農林水産大臣は干拓事業の抜本的な見直しを表明し、2002年4月から28日間の短期間に堤防を開門し、前後の合計8か月間にわたって環境調査を行った。


開門を求める運動は有明海に面する四県にまたがっていた。調査結果はごく短く言えば開門の前後で諫早湾には若干の変化はみられるが、有明海全域にわたる水質の変化はみられない、というものであった。


これを不服として2002年に漁業者らが国に工事差し止めを求めて裁判を起こした。その後も開門を求める提訴が漁業者や佐賀県から続いた。


2008年には営農が始まったが、2010年に福岡高裁が開門を命じる判決を出した。当時は民主党政権だったが、国側は上告せずに開門命令判決が確定した。


2011年には営農者らが開門によって塩害・冠水の被害を受けるおそれがあるとして開門差し止めを求めて提訴した。


こちらは2017年に長崎地裁が開門を差し止める判決を出したが、時はながれ自民党政権になっており、国側が上告せずに確定した。


民主党は「ムダな公共事業は止める」との政権公約を出しており、自民党は有り体にいえば地元に公共事業を約束することで、地方で票を獲得していた。


二つの相反する判決が併存したのはそういう政治背景がある。

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